今、福祉を問う (24) 近藤文雄

リサイクルの歩み

 リサイクルの創草期に、昼夜の別なく孤軍奮闘する杉浦を助けて、何とかリサイクルを回転させたのは、無償の専従者を買って出た寺尾君と、暇を作っては応援してくれた太陽と緑の会の会員たちであった。好意的なマスコミの支援によって、福祉リサイクルの存在は徐々に市民の間に浸透し、不用品を出してくれる人々の数も増え、仕事をはじめて三カ月目には第一回ガレージセールを開催するまでに漕ぎつけた。
 最初から参加した名田君は障害者ながら、徳島の地理不案内の杉浦の水先案内をつとめ、今では回収部門の中心としてなくてはならぬ存在となっている。
 昭和六十年になって、福本健次氏が東大工町の一等地の店舗を無償で貸して下さることになり、待望の常設店開設が実現した。松本瑞子さんが店長として売り上げを伸ばしてくれたので財政的に一息つくことができた。しかし作業所の改造、トラックや天幕の購入、作業所への電気・水道の引き込み工事などの止むを得ぬ設備投資をする余力はなく、各方面のご厚意におすがりするほかなかった。
 リサイクルが一大飛躍をとげたのは六十年に国府町店が完成してからであった。三木徳島市長のご好意で、新庁舎建設中使用していた仮庁舎を無償で払い下げてくださり六百万円にも及ぶ建設費は徳島県建設業協会の赤松徳島支部長と会員の皆様が無償で引き受けて下さった。難航していた建設地も笠井仏壇・笠井穆社長のご理解によって国府の土地を貸して頂くことができた。これはまさに奇跡の三段跳びであったが、このお陰で売り上げは二倍になり、運営の基盤はほぼ固まった。延べ百二十坪もある店にはありとあらゆる種類の品物が山と積まれ、いつでも市民の方々の御利用を頂ける態勢が整った。
 それに伴って人手も増え、専従一、準職員三、障害者六、おおぎ学園の園外実習生二を加え十二名の大世帯となったトラックも援助を得て小型一台追加購入した。障害者は当初、すべて自宅から通勤という形を考えていたが、実際にやってみると自宅の受け入れ困難な子が多く、結局六人は丸抱えを余儀なくされた。衣と住はリサイクルのものを利用するものとしても、食は支給しなければならず、光熱水料もかさんで思わぬ負担増となった。
 現在一番必要としているのは専従者で最低三名欲しい。回収、補修、販売の三部門それぞれの責任者であるが、杉浦同様の考え方、熱意、実行力を持つものが条件である。それだけの能力のある人が他の仕事を捨てて将来何の保障もないこの仕事にとび込んでくる、とはちょっと考えにくいことである。給料目あての人間ならいくらでもあるが、それでは福祉リサイクルの理想はなり立たない。幸い、この五月から日本青年奉仕協会から一年間ボランティアが来てくれたので一大戦力が加わった。
 福祉リサイクルの収支については詳細な帳簿が揃っているので何時でも公開できる。また機関紙発行の余力はないが、いずれ機関紙で収支その他活動状況を市民に報告したいと思っている。
 (近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

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