今、福祉を問う (25) 近藤文雄

いきいきと生きる

福祉リサイクルで障害者らが共同生活をはじめてから二三年の間に見違えるほど成長した子がいる。それは知識や技能の面ではなく、初めの頃目標もなくうろうろしていた子が、自信と自主性を取り戻すという過程においてであった。彼らは過去に福祉施設や事業所にいたこともあるが、その何れにも安住の地を見出すことはできなかったし、家庭はそれ以上の茨のむしろだったからリサイクルにやってきたのだろう。
 事業所は営利を目的としている以上、賃金相応に働かねば許してくれず、また社会人としての一応のマナーも要求されるが、それは彼らには無理な注文であった。尻を叩かれ、軽蔑の言葉を浴びせられ冷たい仕打ちに堪えかねて職場から逃げ出すのが常だったうさばらしのために無けなしの金をはたいて歓楽の巷に一時を忘れたが、後には空しさと借財を残すだけだった。他に楽しみを知らぬ子は、金を持てば前後の見境もなくパチンコに注ぎこんでいた。
 施設も彼らには向いていなかった。決まった日課の流れに身を任せることに堪えられず反抗者、アウトローのレッテルを貼られて施設を出た後は、金輪際施設に戻る気をなくしているのである。
 そんな彼らが最後に辿りついたのがリサイクルであった。そこでは事業所のように一定の労働を強制されることもなく、施設のように判で押したような日課に従うこともなく、また、差別的な家族関係の煩わしさもなく、同じような境遇の気のおけない仲間がいた。
 リサイクルでも遊んでばかりは居られないが、何をしなければならぬ、ということはなかった。雑多な仕事の中から、自分に向いた仕事を見つけて、自分で出来る範囲ですればよいのである。そして、その仕事をしている中に、この仕事を自分がやらなければリサイクルが回っていかないということが自然に分ってくる。指導員には障害者の自主性を育てようとする基本姿勢が確立していたから、一人一人の個性を尊重し、自分で仕事を選ばせ自主的に動くように仕向けることに十分な手間暇をかけたことがよかったのである。
 障害者の一人は、地理不案内な運転手のために、トラックに同乗して毎日水先案内を勤めた。その中に、彼なしには回収の仕事が旨く運ばないことが自他ともに分ってきて、それまで無責任で自棄的であった彼に、自尊心と責任感が回収の電話の受け答え、回収の段取りは彼が一手に引き受けるようになり、その表情や動作が見違えるほどいきいきして来た。
 もう一人の子は、自転車のサビおとしが得意だった。こつこつと辛棒強く仕事をする質で、それまで月に十台しか整備できなかった自転車が、彼が来てから二十数台もできるようになった。彼は、自転車にかけては俺が第一人者と自負するようになり、簡単な修理さえ手がけるようになった。
 彼にはもう一つの楽しみが出来た。近所の荒地を開墾して農園を作りはじめたのである。朝、まだ皆が寝ているうちに起き出して、鍬を振るい草をとり、種をまき、苗を植えた。その成果が彼らの食卓を賑わすようになる頃、彼は農園のボスとしての地位を確立した。余暇に一人畑で草とりをする彼の後姿には、落着きと優しささえ感じられるようになった。今、手こずっている子も、いつかはその個性を活かしてそれなりの居場所を見つけるのではないかと希望を持たせてくれる彼らの進歩であった。
 (近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

[前へ] [indexへ戻る] [次へ]