今、福祉を問う
(新春随想)
近藤文雄

寅さんの愛

 私は滅多に映画は見ない。テレビでは時々見るが映画館へは数年に一度しか行かないから見ないも同然である。映画は好きだが、わざわざ行くのが面倒なのである。
 そんな私が偶然テレビのスイッチを入れたら寅さんが出ていた。途中だったからよく分らなかったが、何か偉い考古学者が寅さんの所へ来ている。この先生、寅さんに負けず脱俗の人だったから、ふたりは馬が合っているようだった。
 お前さん結婚していないのかい。どうして、と寅さんが聞く。う〜ん、結婚ってむつかしいんだ。お前さん考えているのかい。うん、考えても分らないんだよ。そこで寅さんが云う。何がむつかしいっていうんだ。何もかも知っているお前さんが。ここから彼の愛情論が、いや、寅さん節が始まる。愛とは、「ああいい女だなあ、と思う。次に、ちょっと話をしたいなと思う。そしたらもっと話をしたいなと思うようになる。話をしている中に、フワッと温い、何とも云えぬいい気分になる。そうしているとこんどは、この人を守りたいなあという気持ちになる。そしたら、今度はこの人のためなら死んでもいい、という気になる。命を投げ出しても惜くない、という気になる。そんなもんだよ・・・」
 寅さんにとって愛は自然な感情のながれに乗るだけである。邪念がないから、それで方向を誤ることはないのである。
 さすがの考古学の大家も、感ぬ堪えぬといった風で、しばしうなるだけであったが、突然、あんたはわたしの師だ。と叫ぶ。して何だと寅さんが聞く。先生ってことだよと傍の方が教える。
 こんな書き方をすると、あの映画のシナリオを書いた人や監督が怒るに違いない。せっかく練りに練り、計算し尽くしたセリフが、滅茶苦茶にこわされているからである。名人の筆蹟をすき写しにして、これと同じだというよりものだからである。
 と云っても、一瞬のやりとりだったから、私は言葉の一つ一つを正確に憶えていない。何とかその場の雰囲気を伝えるのが精一杯である。
 この先生、誰かに、ふんぎりのつかない思いを抱いてやってきたように見えるが、寅さんに一喝されて、ハッとしたようである。そんな余いんを漂わせて先生は去っていった。
 言葉で説明すると愛はとてもむつかしくなるが、寅さんにかかると事もなげにすらすらと云ってのけられる。本物をつかんでいるから、これだよ、と云えば済むのである。そこで寅さんの魅力で、あのシリーズが長く続く原因でもあろう。
 私は幾度となく愛とは何かを説いてきた。多くの人々が愛を、性のからんだ情念と混同して疑おうともしないのに我慢がならなかったのである。しかし、偽物をつかんでいる人間にいくら説明しても分かりっこはない。それを無理に言葉で説明しようとすればするほど、説明された愛は出がらしの鰹節のように味もそっけないものになってしまう。それでは生きた愛が伝えられるはずがない。愛という感情を中心とした心の動きを、情を抜いた言葉で説明しようとするのだから、当然と云えば当然でもある。甘さや辛さは口では説明できない。
 愛とは二人の心が一つになることだ、とか、求めているではなくて与えるのだ、といってもピンと来ない筈である。そこは、知情意の区別がきく常に全人的に働く天真爛漫の寅さんなら、一言であっさり片づけることができるのである。
 彼は真宗でいう好好人のようである。好好人とは真底から仏を信じ、毛程の疑いも、一片の理屈も用いないから、傍目には奇異に感ずるような行動をする人であるが、そこには信仰の真髄が赤裸々に現れている。好好人のような寅さんは愛の真髄をズバリつかんで余す所がない。
(近藤整形外科病院長、徳島市富田浜二丁目)

[前へ] [indexへ戻る] [次へ]