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岡山県の邑久町に「長島」という小さな島があります。ひょんなことからこの島を初めて訪れたのは、今から二十数年前。学生気分の軽い気持ちで、知人たちと島で催される夏祭りの手伝いをしたときのことです。 当時、長島に渡るためには渡し舟が必要でした。「あれが長島や!」と言われて振り返ると、百メートルほどの海を隔てて、その島は横たわっていました。こんもりした島影を眺めながら小舟で上陸した私たちを、島の自治会長さんが出迎えてくださいました。 昔の木造小学校を思わせる建物が何棟も連なり、その周りにいくつものこぢんまりした家々が、ひっそりと立ちすくんでいます。中央に集会所と売店、事務所があり、私たちはこの集会所に泊まり込むことになりました。 私の仕事は力仕事と模擬店の輪投げの店長でした。「さあ、投げ輪五個で百円。人形にライター、置物、たばこもあります。ただし下に敷いたこの四角い板の台をきちんとくぐり抜けないと、残念ながらもらえません。腕と度胸があれば、ええい!持ってけ、ドロボー、早い者勝ち」と、来るときのバスの中で何度も口ずさんだフレーズを繰り返しました。 「わしにやらせてくれ」「品物はこんだけかいな。あんたの横の段ボール箱からもう少し出さんかいな」と、なかなかのにぎわいでした。盆踊りの音楽と人々の喧騒(けんそう)がこの小さな島に響き渡ることが、いったいどういう意味を持つのか、などという意識もないままに、「私」はこの島にちょっとした違和感を覚えながら、輪投げの店長を続けていました。 輪投げに千円、二千円とつぎ込む人、うまく品物を手に入れたときの子供のような喜びよう、狙った品物が取れなかったときの私までつらくなるほどの悔しがり方・・・。ふとした拍子に、輪投げを楽しむ人たちの指が曲がったり、ないことに気が付きました。ほとんどがお年寄りです。かなりの方々がサングラスを掛け、眼帯を付けておられる方もいました。 輪投げに熱中されるお年寄りたちの背中に、若いころの思い出をもう一度つくり上げようとでもするかのような「必死さ」を感じずにはおれませんでした。その「必死さ」の生々しさに「私」が揺れ動きます。 この島全体が、ライ予防法により集められたハンセン病患者の方々の療養所として成り立っていること、ハンセン病がライ菌という感染力の弱い病原菌によって起こり、今では治療法が確立し保菌者もほとんどいないこと、感染も乳幼児期の濃厚な皮膚接触で起こることが多く、通常での感染はほとんどないこと、発病後に両親や妻子、夫とも別れ、ここに来られていること、昔からライ病として恐れられてきたことなど、話として聞いていた「私」と、輪投げの店長としてここにいる「私」の位相の違いに戸惑いながら、このズレをどうまとめ上げたらいいのか分かりませんでした。 「輪投げは大成功やな。ようやってくれました」。次の日、知人たちと一緒に訪れた家の方に言われました」。次の日、知人たちと一緒に訪れた家の方に言われました。私は親しく話し合う知人たちの片隅で、私の中で起こっているこのズレに注意を奪われながら、借りてきた猫のように振る舞うしかありませんでした。何か自分の心ここにあらずというでもいう感覚を抱いたまま帰途に就きました。 随分たって、お礼の手紙を出しました。すぐさま返事をいただき、「一番手紙が来そうにないと思っていた人から手紙が来た、と話をしていました」と書かれていました。「ちゃんと見ている人は、ちゃんと見ているんだ」と訳の分からない独り言が始まりました。 それから二十年ほど過ぎたある日、長島にようやく橋が架けられたことを伝える新聞記事を見つけました。
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