柳沢寿男監督と出会ったのは、今から二十四年ほど前、私が二十一歳のときでした。知的障害の子供たちの施設にボランティアとして出入りするようになった関係で、たまたまボランティア仲間に映画のチケットを売ってくれないかと頼まれ、自分も見ることになりました。
 映画は、仙台市にある国立西多賀病院を舞台にした筋ジストロフィー症の子供たちの記録である「ぼくのなかの夜と朝」と、身体障害の方々の福祉工場を記録した「甘えることは許されない」という二本立てです。いわゆるドキュメントフィルムというジャンルに入り、医療や福祉の現場を長期間にわたってフィルムに取り続き、編集したものでした。
 京都の勤労会館での上映会は、私にとって感動的というより、厳しい現実を映像で突きつけられる重苦しさが澱(おり)のように残る感じでした。「ぼくのなかの夜と朝」の最後、病室の扉(とびら)がパターンと閉まる不気味さ、そして「甘えることは許されない」のラストシーン。ある身体障害の方の、朝起きて服を着替え、車いすに乗るまでの気が遠くなるほどの労苦を延々とカメラはとらえた、もう勘弁してくれ、と叫びたくなるような感覚が今でも残っています。
 早く会場を出て、この場を立ち去りたいという衝動と、とりあえず受け付けで販売している本だけでも買い、後から文字を当てはめることで、この名伏しがたい感情を括弧(かっこ)に押し込めたい気持ちがありました。
 こんな映画をだれが撮ったのだろうという感銘より、見たくないものを見せられてしまったという方が、自分の気持ちに近かったようです。この映画を作った監督は、ひとり、ロビーでたばこをくゆらせていました。
 「都会では自殺する若者が増えている。けれども問題は今日の雨、傘がない。行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ、傘がない・・・」
 こんな流行歌をいつしか口ずさみ、もう、この映画監督とも映画とも出会うこともないだろうと、勝手に思い込んでいました。
 いつしか自分自身の進路が揺らぎ始め、自分の進んでいく方向が見えなくなり始めたころ、監督のお宅に出入りし始めるようになりました。映画に特に関心があるわけでもなく、福祉に特に興味があったわけでもありません。ただ今まで、特に疑いを持たずにきた価値観が、なぜかそのままでは支えられなくなったとき、柳沢監督の前で、生意気に理屈っぽく話をしている自分がありました。
 フン、フンと相づちを打ちながら、世間知らずの若造相手に、一時間も二時間も付き合っていただいたことの大変さを今でこそ気づくわけですが、当時は知るよしもありません。
 こんな一方的なお付き合いを続けていただくうちに、思ってもみない進路をたどることになりました。本を読むことが嫌いで、国語や社会を避けたかった気持ちから理科系を選んだ自分が、なんと一番苦手な社会福祉に方向転換することになったのです。
(徳島市入田町月の宮)
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