私が学生時代、京都で出会った柳沢寿男監督の話を続けます。
 「僕はね、戦前、松竹の撮影所で助監督をしていたんだ。でも、チャンバラが嫌いでね」
 「チャンバラが嫌いといったら、他に撮るものがなかった時代じゃないですか」
 「それもそうだが、そのころ亀井文雄という監督の『小林一茶』という映画を見てね、こりゃあすごいと思った。こんな作り方もあったのかと、思わず身震いするほどだったよ。それから日本映画社に移ってね。そこが解散して、岩波映画社に入った。いろいろ撮ったけど、あるときからいやになった」
 「どうしてですか」
 「ある企業の映画を作っていてね、今でいうコマーシャルフィルムだね。作った後、そこの会社の工場排水が原因で公害が発生して、多くの犠牲者が出たんだ。そんなこと、作っているときには全く気づかなかった。だが知らなかった、気づかなかったということでよかったのか、自分も加担していたんじゃなかったのか、と随分悩んだよ。もうこんな映画は撮りたくない、そう思ったんだ」
 「随分、真摯(しんし)だったんですね」
 「しばらくブラブラしていた。そんなとき、ある心身障害児施設にきてくれないか、という話があったんだ」
 「それが『夜明け前の子どもたち』という、医療と教育の両面から障害児に働きかける、びわこ学園の試みの記録になったわけですね」
 「最初は、重度の心身障害を持った子供たちなんて全く知らなかった。ちょっとした弾みというか、縁というか、そんなところだった」
 「記録映画としての見通しは持っておられたのですか」
 「いいや。今思えば土本典昭監督が撮り続けた『水俣』や、小川伸介監督がこだわった『三里塚』のように、自分も何か社会的テーマを追いたいと思っていた。けれど、根っからの憶病者だから・・・。『福祉』なら何とかなると考えてやり始めたが、こんなに大変なこととは夢にも思わなかったよ。お金にはならないし、貧乏所帯でやりくりしてやっとできたと思ったら、こんなの映画じゃないと散々非難されるし・・・。福祉ほど際限がなく難しいものはないね」
 「そんなに大変ですか。親に内緒で大学の学部を代わって社会福祉をやろうと思うんですが・・・」
 「そりゃ、やめた方がいい。苦労ばかりで、いいことないよ。まともにやればやるほど大変だよ」
 「でも柳沢監督、そうおっしゃるわりには、懲りずに福祉の現場を撮り続けておられますね」
 「まあ、一度入ったらなかなか抜けられないんだよ。それより、大企業に入って出世して、マネーサポートをしてくれた方がどれだけありがたいか・・・。『福祉』を撮る前は銀座のクラブで飲めてた酒が、今じゃさっぱり。声も掛けてくれなくなるよ。考え直すなら、今のうちじゃないの」
 そう語りながら、五十歳に手が届きそうな年齢にもかかわらず、まるで生き方を変えるように映画を撮る方向を変えた一人の映画監督は、ほほえんでたばこをくゆらせていました。 
 (徳島市入田町月の宮)
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