徳島新聞「ぞめき」原稿 杉浦良
No.107 タイトル「セーフティーネット」
今は昔、四半世紀も前の大阪での話です。養護学校を卒業して二年間は一般企業で働いたものの、その後打ち切りとなり、行き場所もなくブラブラするうち、お金に困って盗みを働き、警察にお世話になった知的ハンディを持ったメンバーがいました。養護学校の先生がプライベートな時間を使って、そのメンバーのフォローアップをしていました。
廃バッテリーやアルミ缶、古いアルミの鍋釜や、水道の蛇口、古いモーターや銅線などを買い取り、さらに細かく解体分別してリサイクルする小さな商店の親方に、事情を話して働かせてもらえるよう、先生は頼みました。
「給料は本人の仕事した分だけでいいですわ・・。仕事以上に金もらうと、調子に乗っていい気になってしまうさかい・・。細かい所はS君に面倒見てもらって・・。」
S君は先生所有の古びた家に住み込みながら、二トンや四トントラックに彼を乗せて、廃バッテリーなどの回収買い取り作業に携わる事になりました。
当時大阪では、障害者職業適応援助制度により、事業者に助成金、本人に訓練手当が二年間支給されていました。訓練手当を自分の働いた給料と思い込んでいた彼は、この小さな商店での安い給料に不満を持ち、事務所の引き出しから、一万円を盗み出しました。
「俺は取ってない!信じてくれんのか?」涙目になって訴える彼に心揺らぐS君は、養護学校卒業後の彼の足取りを、一つ一つたどりながら確認して行きました。自信の無さを強がりで隠す弱さを、どう乗り越えるか?養護学校ではそれなりに優等生だった彼も、会社に入れば、とても人並みにできない駄目な存在があらわにされます。
「気持ちは分かるけど・・、正直に言ったらどうや・・」。そうつぶやくS君に「殴らんといてや・・」と彼は泣きながら答えました。「あんた殴っても手が痛いだけや・・」。そう言ってS君は差し出されたクシャクシャの一万円札を、次の日親方に手渡しました。この養護学校の先生、S君、親方は、今流に言えば、全員無償で手弁当のボランティアでした。
時代は移り、この四月から触法障害者の受け入れ福祉施設に、報酬が加算されることになりました。いつの間にか社会のさまざまなセーフティーネットが崩れ始め、二〇〇七年に刑務所に入った三万四五〇人のうち、障害があるとされる知能指数七十未満は全体の二二%六七二〇人と法務省は公表しています。 (杉)
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